take it easy.

気楽にいこうよ。

人の肌は優しい

久しぶりに、自由に肌に触れていい人が自宅に存在していた。

自分でも思う。「なんてまどろっこしい表現なんだ」と。

平たく「恋人が家に来ました」と言えばいいのだろうけれど、私たちはそういう契約のもとにいないし、一般的なカップルとは少し違った考え方をしている。

詳しいことはいずれ時が来たら書こうとは思うけれど、確実に言えることは、お互いのことは、ある程度大事に思っているということ。
(少なくとも私は超大事に思っている)

そういう人がひとりだけで、異性でなければならない、だとかを全く考えていないので、そういうところで「一般的でない」と思っているのだけれど。

狭いベッドの上で、その人の肩に顔を埋めていた時間はかけがえのないものだった。

その人にとっても私との時間がプレシャスであってほしいと願っているけれど、そうでなくても別にいい。

そう思えるまでには、なかなかの時間がかかっているのだけれど、それはまた後日。

 

眠りたい夜もあるよ。

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不安の払拭を動機としていることは、不安を打ち消すだけでしかない。私は、わくわくをきっかけにして新しい世界を見たい。


社会復帰、否、「会社」復帰のためのプログラムをちょっとずつこなしている。

(一時的に食いぶちにしている仕事を長期間休んではいましたが、社会からドロップアウトしたつもりはありません!ギリギリのところで踏ん張ってます!)

正直、毎日クッタクタである。

「もうボロ雑巾と呼んでください!」というレベルである。

これも私に認められている休職期間の残りが少なく、プログラムをなかなかの駆け足で行なっているから、という理由はある。

私は、仕事から帰宅した段階で諸々のライフはゼロとなっており、少しでも余力があれば一旦風呂に入って昼寝、なければそのまま昼寝をしている。

せざるを得ない。

しないつもりでも落ちているんだもん。

 

2時間ほど経過した頃、ハッと気がついて一瞬は罪悪感で落ち込む。

これでも落ち込みからの回復は早くなったのよ。

動けるようになるまでさらに1時間もの間、ぼーっとしている。

本でも読めばまだ有効な時間の使い方になりそうなものだけど、また寝てしまうのでほとんど読まない。

部屋には積読本が文字通り山となって積まれているのだが。

 

動ける!と思えるようになったら動く。この時点で、だいたい夜の9時は回っている。

簡単な夕食を拵え、食べ終えたらまたぼーっとする。

この頃には本が読めるようになる。

 

気ままに過ごしていると、気づけば日付が変わっていたりする。

片付けや翌日の準備など、できているわけがない。

そして問題がもうひとつ。

 

眠れないのだ。

 

帰ってすぐの昼寝や服薬時間やその他にも思い当たるところはあるんだが、だいたい26時を回らないと眠れない。

そして翌日の朝が辛くなり、仕事から帰ると寝落ち→ループ、ということも頭ではわかっている。

が、欲のままに怠惰な過ごし方をするので改善が難しい。…と思っている。

 

今日だって、あと4時間半後には起きて支度を始めなくてはならないが、これ書いてるし…

なんとかなりますように…

明日から、復帰プログラムの最終ステップ、スタートです。

それは私になる

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三日坊主も甚だしくて自分でも嫌になる。

「誰が読んでいるのさ?」「読む人のために文章考えよう」などと良くも悪くも他者の視線を気にしてしまい、筆が止まるのかもしれない。

もっともっと気楽に書けるSNSfacebooktwitterなど)はちょこちょこと更新しているのだが、ある程度のボリュームがないと見栄えしない気がしてしまうのだ。

「見栄え」という考えも自分ではなく他者の視点だな。

 

全部「気のせい」。

本数たまっていかないと誰の目にも止まらないのだろうから、もう少し書いてみることにします。

 

それは私になる

最近、食べるものを気にするようになった。

以前に比べれば、という程度のごくごく小さな変化ではあるのだが、野菜とフルーツを摂るようになった。

どちらかと言えば苦手な意識が強かった両者である。特にフルーツの食わず嫌いは自分でも凄まじいと感じている。数種類のフルーツ以外は基本的に口にしてこなかった。

それが、スーパーの売り場で「今日はどれにしようかしら」と頬に手を当て考えるようになり、今はアボカドとパパイヤが食べたいなと考えている。近所の人のおすそ分けの、庭でなったというビワもおいしくいただく。結構な進歩ではないかしら?

 

きっかけは以下の通り。

先日、とある場所にお邪魔した際、フルーツ盛り合わせをどどんと出されたのだ。場の空気からも、手を付けずに逃げることが憚られてしまった。先方には「実は、苦手なんですけど」と断った上で、一つずつ食べてみることにした。同じ種類のフルーツも品種違いなどが用意されており、「これはおいしいけどこれは苦手」「こんな味の品種があるんだ!」などと楽しみと驚きをもって食べ進めた。合計7種ほどあったが、どうしても無理!というのは1種類だけで、あとはすべて自発的に2つ目もいただいている。

 

食べられない、食べたくないと決めつけるのではなく、食べられる品種もあるのではないか、工夫次第で食べられるようにならないか、などを考えるのは思いの外楽しいことに気がついた。

 

そういうことを考えていたら、野菜についても食べてみようという思いになり、苦手意識の強かったものから手を出している。そして調理法で克服できそうな気にもなっている。

こうなると、必然的に食べるもののバランスが変わっていった、という次第。

 

とはいえ、肉も甘いものもジャンクフードもカフェインも好きだし、余力がないときは食事を抜いたりインスタントなもので空腹を紛らわせることもある。

ただ、口から入るものは、いずれ私の身体を構成するものになるのだ。

必要なものの取捨選択は私の内臓を信じるとして、ある程度のバリエーションはこちらで提示していくのばアリなのではないかしら?と今では思う。

 

口から入るものに限った話ではなく、目や耳、つまり五感で得られる情報はすべて私の身体(と心)を形作るものだと思う。

触れるものすべてにもこの感覚を持っていられたら。

どうやったって不要!と感じるものを、無理に取り込む必要はないんだよ。